『BACK TO THE FUTURE PARTⅡ』(1989)

映画にうちのめされる。映画がうちを支えてる。
あまりに幸福で、このまま死んでもいいかも、と思えた今日。

『BACK TO THE FUTURE』シリーズは小さいときから何度もみていて、映画のシーンごとに当時の純粋なワクワクがフラッシュバックされたりもして、ある意味本当に自分にとって貴重な、思い出深い作品で大好き。もともとこの映画が好きで、MichaelJ.Foxが好きになって、『ティーン・ウルフ』とかをみて、やっぱり『BACK〜』に回帰した。そのすべてが自分に馴染んでいる気がするし、ここに来れば安全、とさえ思える。もう何が好きなんだかそんなことどうでもよくなるくらい気絶しそうなくらいやばいくらい愛してる。


『BACK TO THE FUTURE PARTⅡ』
監督:ロバート・ゼメキス
脚本:ロバート・ゼメキス/ボブ・ゲイル
出演:マイケルJフォックス、クリストファー・ロイドリー・トンプソン、クリスピン・グローバー

帰り道に思ったのだが、これはエンターテイメントの権化だな。お約束もりだくさん、盛り上げるところはちゃんと責任とってくれる。3部作を観ること、くりかえし観ることを予測した複線×複線で、観客に優しい。練りこまれた脚本(もともとパートⅡ('89)・Ⅲ('90)の製作予定はなく、Ⅰ('85)の公開後、ラストに沿う形で無理やり生み出した)は、その無理やりさに冷める余裕など与えないスピードで次の展開をみせる。“ちゃっかり”という言葉を用いるならば、マイケルJの立ち居振る舞い同様、“ちゃっかり”な映画なのだ。自身のエンターテインメントが観客の目にどのように映るのかを熟知しているからこそ、ぎりぎりまでひきつけておいてシリアスに突き放すこともできる。観客に優しい、と同時に観客を操り易いとも言えるのではないか。
そして特にPARTⅡに関して言うなら、過去の自分と未来/現在の自分との対面の描写が、懐かしさという温かみを与えてくれる。PARTⅠで観ているシーンを差込み、あるいは別の視点から捉え、それらが同時進行的に展開する。現在の自分が過去の自分を見つめている、そしてその角度の違いによって新たな解釈がうまれる。その面白さと過去を受け入れるという感動。(これを言いはじめたら『素晴らしき哉、人生!』(フランク・キャプラ)という原点に戻ってしまいかねないけど。)同時に、自身の良い記憶/名シーンをほくほくとした気持ちで見てしまうキャラクター/観客がいる。奇怪な時間を生きているマーティ、彼がこの映画の世界で過ごした時間はたった一日だけ。108分という時間の中に詰め込まれた内容の濃さと彼の過ごした時間の濃さとが、これまた奇妙な感覚を生み出す。映画を観ている間に流れる時間を感じながら、同時に、それに等しいはずの時間を支配し組み替えようと試行錯誤する映画そのものの時間を感じることができる。撮りだめたフィルム(過去)に別撮りのフィルム(新たな過去)を加えながら切り貼りすること自体が映画そのものであること自体を映画化しているような気もする。“スポーツ年間を奪い返す”ことが目的として掲げているが、これは“失敗の隠蔽”の比喩である気がする。最後に年間をビフのマッチで燃やして消し去ってしまう、しかし、それは時間のなかから存在としては消え去るが、奇怪な時間を生きるマーティとドクの間には記憶として残る。そこがやはり奇妙で、世の中に影響を与えない内部の変化によるつながりと、無からうまれたPARTⅢのラストに用意された“失敗の隠蔽”とそれによる“ご褒美”で決着をつける。あーわけわかんない。



NOT THE END