ずっと嘘だったについてつぶやく

斎藤和義の原発の替え歌http://t.co/j2IZmHDに踊らされている人は伊丹万作の“戦争責任者の問題”という文章を読めよと批判しているサイトhttp://anond.hatelabo.jp/touch/20110413222428

を今読んで、思ったこと。サイトの製作者自身も斎藤和義が‘騙された’と歌っているわけではないと訂正した上で彼の真意はわからないとしていたけど、何よりもまず伊丹万作の文章は名文だったので必読。これを読んだ当時の人々の反応が知りたいところです。でも今はとりあえず、あくまで、斎藤和義の歌に関して思ったことをつぶやきたい。ややこしいかもしれないけど。
とりあえず私はあの動画が、めちゃくちゃそっくりな“モノマネだったとしたら”そういうことやる人になりたいとは思わないけど、嫌いではない、と思う。

あの歌は、日常から抜け出すべく昔好きだった彼女への淡い恋心に思いを馳せた男の感情を一般化させて歌ったものであって、歌詞にあるように、彼女との再会に対して、男は現実生活を変えるほどのものを期待しているわけじゃない。もう戻ることの出来ない過去への人間臭い後悔の思いや、今も持ち続けている彼女への憧れの気持ちを歌の中に隠すことで、一瞬の癒しに過ぎない再会の時間を互いに楽しみ、酒一杯分長引かせることができればそれで充分、そんな割り切った爽快感が聞く人の同感を得たのだと思う。

その歌『ずっと好きだった』を『ずっと嘘だった』という名に変えてわかりやすく原発を皮肉ったことには、面白みがある。この単純な替え歌は、政府や東電を嘘つき呼ばわりして、我々は被害者なのだと嘆く“同感ソング”という体裁を成している一方で、これを歌う人々、すなわち化粧品のCMソングとして親しみ、少なからず歌詞に同感していた人々であり、また原発が危険なものであることを意識しながらも、自身の日常にはほとんど影響を及ぼさないものとして見過ごしていた人々、そして今になって政府を嘘つきだとつぶやいている人々を、多少なりとも皮肉る歌のように思えるからだ。つまり、“嘘だったんだぜ”を“騙されてたんだせ”と聞き間違えているだけでは、あの歌が歌われることそれ自体の真意を理解しきれていないように思える。言い換えれば、“嘘だった”はようやくことの重大さに気づいて慌てる人々を手遅れだと哀れむ“同情ソング”にも聞こえるということだ。
“俺たちを騙して言い訳は想定外”
この言葉は、替え歌を歌う本人にも向けられうるということを見逃してはいけないように思う。もちろん、原子力を安全でクリーンだと謳っていた広告などに罪がないわけでは決してないし、無知であることは罪ではないと思うけど、無知であり続けることに甘んじ、広告に流されてしまう無力さを恥じないのは、間違っていると思う。だって、原爆の怖さを知ってるから原発が安全だとは決して思ってはいなかったけど、反対運動をしようとは思わなかった自分が、私は恥ずかしい。だから私はこの歌を歌えない。

だから、あの動画がモノマネなのならば、替え歌を歌っているその人自身が皮肉を体現しているという点で、そしてそれが、かつて好きだった女性が目の前に現れた今、淡い恋心を懐かしむばかりで徹底して無力であることに甘んじようとする元歌に同感している人々に向けられたものであるという点で、とても面白いと思った。だから、単純で感情的な歌詞は、そういった意味で不似合いではない。

でも、あれがどうも本人に違いないという話を聞いて、彼の姿勢に賛同している人が多いらしいと聞くと、ちょっとどうなの?とも正直思ってしまう。プロのアーティストとして発表する歌としては、あまりに出遅れた歌詞であると思うし、これまで原発批判の歌をリリースできなかったことへの嘆きや怒りがこめられているならば尚更歌詞が違うように思う。そして、確かに耳馴染みのある曲を援用するのは手っ取り早い方法ではあるんだけれども、プロのアーティストならば新たに曲を書き起こして欲しいと思ってしまう。だって、どこかパフォーマンスのような印象が付きまとうじゃないですか。自己批判を込めた自虐ソングなのだとしたら、その不器用さに感嘆するのだけれど。

私は斎藤和義がずっと好きだったし、これからも好きでいたいので、なんかいろいろ考えてしまいました。