『SR サイタマノラッパー』(2008)

SR サイタマノラッパー』(2008)

【日本・80分】
監督: 入江悠
脚本: 入江悠
撮影: 三村和弘
音楽: 岩崎太整
録音: 高田美穂
出演: 駒木根隆介、みひろ、水澤紳吾

ロングテイクを多用したよく動くカメラに反して、あまりにも人間が動かなさすぎる。
そのせいだろうか、カメラが常に待ちわびている「何か」の生起を、観客は常に、予期しながら「待たされ」続けているに過ぎないように思える。キャラクター設定や言葉の掛け合いで面白みを感じさせるには、それではあまりに見ていて辛い。おそらく、監督が意図したのは、その突発的な何かの出現の瞬間であったはずだ。だとすれば、その出現までの「間」をつなぐ「動き」が必要だったのではないか。キャラクターが動かないことで,理不尽なはずの「事件」は、段取り通りの芝居に見えてしまう。

また、この映画をみる観客はどの立場に立つことを想定されているのか。それがぶれている。

例えば、市の会議でラップパフォーマンスをすることになったIkkuら三人と、彼らに質問する会議参加者らとをほとんど同距離から捉えた切り返しをパンに代えた長いショットは、会議参加者の背中越しに、三人を観察するかのように見つめ続ける。そして、ラストの長いショットもまた、ラップで思いの丈をぶつけ友人Tomを振り向かせようとするIkkuを遠巻きに捉え、手前には当惑し、冷笑しさえする工事現場の労働者たちが配されている。つまり、Ikkuをはじめとする彼らは常にある程度の距離を置かれてしまう冷笑の対象なのであり、だからこそ、それにラップであらがおうとし続けるラストのIkkuの姿が感動的なように思える。

おそらく作り手は、埼玉県でラッパーという夢を追いかける、純粋無垢で無謀な青年たちを観察することで生まれる皮肉な笑いが、次第に彼らの葛藤を知り、また、彼らが無力さを知って散り散りになっていくのを目の当たりにすることで思わず彼らに感情移入してしまう、といったようなことを意図しているのだと思う。
だとすれば、前半部分に多く観られる観察者の眼を配した彼らの私生活を長々と見せつけるのは逆効果であると思う。