いくぞ12月

ロープ [DVD] FRT-002

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『ロープ』
アルフレッド・ヒッチコック

ロバート・ワイズ三谷幸喜、完敗。

本作は10分間のシークエンスショットを上手くつなぎ合わせ、映画内時間と現実時間を一致させる手法をとった作品である。ロバート・ワイズが『罠』でやってみせたが、その手法に限って言えばあまりぱっとしなかった。
映画は演劇と絵画を含有している。映画とは何か、について考える為とりあえず演劇との違いについて考えてみる。それはカメラ目であると思う。それをこの映画はつきつける。

演劇について考えてみる。
観客は空間を共有した俳優が、そこに居るのを、行動を起すのを「目撃する」。舞台で起こることはすべて「事実」と背中合わせであり、幕が降りるまで、俳優と観客は時間さえも共有する。舞台上の隅々までを自分の目で見、舞台後方でリアクションしている俳優、あるいは落ちた照明の中でセットが組みかえられるシーンまでを直視してしまえる。「未完成」なものが一つ一つをクリアしながら「完成」へと向かう、一歩間違えばすべてが台無しになりかねないという緊迫感への参加意識をもつことができる。演劇の魅力とはそういう部分にあると思う。

では、映画はどうだろうか。演劇との決定的な違いといえば、モンタージュを経た「過去」の断片の集積であり、すでに完結した「完成品」であること暗黙の了解としているのはもちろんだが、ここでは「時間」のことよりも、カメラを介した「映像」であることを取り上げていいたい。「映像」にすることで、視界を区切る枠を用いて何かを「見せない」ことも、逆に何かを集中的に「見せる」ことも可能である。さらに主観ショットの存在は、本来ならば観客が見ることのできないものを可視化する以上の可能性を秘めている・・・・・・。

ここで、『ロープ』のカメラワークについて考えてみる。
本作では、一般的な作品においてはモンタージュで語る部分のほとんど全てをひとつなぎで語っている。例えば、冒頭部分で主人公らが殺人の凶器として用い捨てたはずのロープが再び主人公の前に姿を現すと、カメラは自らロープのもとに近づきその存在をアピールする。そのままカメラは後退しながら横移動しそれを見ている主人公の表情を捉える、といった具合である。
クレーン撮影によるカメラはなめらかによく動き、その一方、構図を決めるとかっちりと固定される。固定されたカメラの視点は1つに定まり、これは絵画(キュビスムらへんのやつらは除く)的である。画面内で物語を語る場合、そこに何が写っていて、何が写っていないのか、が重要になってくるわけである。
カメラワークのことで触れておくと、決定的に奇妙なものとして印象的なのが、ラストシーンにおける無人のショットである。主人公らの犯罪を暴く大学教授(ジェームズ・スチュアート)が彼の推理上の犯人の軌跡を口述すると、それに合わせて(それまで人物を追っていた)カメラはあたかも見えない人物が歩き回るのを捉えるかのごとくひとりでに動き出すのである。(この部分に関しては後々・・・・・・。)

ここまで書いて何が言いたいのか、『ロープ』がいかに素晴らしいのか、を語るために三谷幸喜を当て馬にさせてもらうが、「カメラ」ついて三谷は特に、上に書いたような「演劇ではなく映画なのだ」ということをあまり考えていないように感じる。三谷の作品において、なめらかなカメラワークが何かを「見せる」ために立ち止まったとき、その視点はカメラではなく、演劇を見ている観客のものに近いのではないか。つまり、枠で切り取り、「これを見て欲しい」という指定された「画面(構成)」になっていないということだ。例えば上述したような、その画面内に写りこんでいるものが今そのショットの継続時間に「見えている」という事実が、映画内部の何者かに与える意味や影響に関して何か考えさせるような仕掛けがあるように思えないのである。

いろいろ思いを述べたが、画面に関して興味が湧きつつあるものの、まだまだ勉強不足なのである。多分三谷幸喜のカメラマンよりも。きっと。