『そして人生はつづく』(1992)

そして人生はつづく [DVD]

そして人生はつづく [DVD]

そして人生はつづく』(1992)
原題:ZENDEGI EDAME DARAD
【イラン・91分】
監督: アッバス・キアロスタミ
製作: アリ・レザ・ザリン
脚本: アッバス・キアロスタミ
撮影: ホマユン・パイヴァール
出演: ファルハッド・ケラドマンド/プーヤ・パイヴァール

観ているものはフィクションなのかドキュメンタリーなのか、混乱させられ続ける。
車で旅する主人公の男はキアロスタミ監督自身ではなく、息子役も息子でなく、地震によって崩壊した風景も、すべて再現である。つまり、作られたシチュエーションの中で脚本どおりに進む虚構を大前提とした映画、しかし、時折映り込む現実はまさに事実そのものなのだ。

生々しい悲劇を映画化している自分自身を嘲っているかのように、セリフによる現実世界への言及が何度も繰り返される。
撮影は実際の地震から5ヵ月後に行われた。映画内では、新婚の夫婦が登場し「地震の5日後に結婚した」と語り、それに対し、キアロスタミ役のファルハッド・ケラドマンが「え、5ヶ月後?」と食いついてみせる。

また、キアロスタミの“ジグザグ3部作”と称される1本目の作品『友だちのうちはどこ?』に登場する老人が、その俳優役として登場し、舞台となる彼の家が本作のスタッフによって与えられたものであることを暴露し、さらにはカメラに向かって話しかけ、小道具を持ってこさせる、といったあぶなっかしいことまでやってみせる。

そのように、映画の虚構を露呈させながら進む物語、の指標は「主人公の目的」の謎解きである。
とにかくどこかへ向かおうとしている車。同乗している息子と同じく、我々は彼がどこへ向かい何をしようとしているのかを教えてもらえない。父親は、その道が続いていようといまいと、おかまいなしに進み続けるのである。
そして、我々の同感者であった息子が謎解き(虚構の中の虚構)を放棄し、同時に「ワールドカップ」という現実世界(虚構の中の現実)へと戻るべく下車してしまうと、我々は車内に残されたカメラと同じく口を持たない「目」として放置されてしまう。

そして車は急な坂道に出会う。坂道の先には我々が開示を求め続けた真実が待っている。車窓から見える風景と高みから撮影された車の客観視、その繰り返しの中で車は坂道をのぼりきることができない。ここから、カメラは車外の超ロングショットのみに切り替わる。そのとき、我々は車内に主人公を残し、下車させられる。主人公の目的・心情そのすべてが我々には見えなくなる。ついに風景の中から車までが消えてしまう。我々にはもう何もすることができなくなる。絶望。
しばらくして再び現れた車はものすごいスピードで坂道をグングンのぼっていく。その瞬間、それまで求め続けた目的は、すでに意味を失っている。のぼること、それに全力をかけたとたん、のぼりきったとたん、その先に何が待ち受けていようとすべてを許してしまえるように、唐突に、映画は結末を追うことを拒否し、終結する。


物語の目的をつむいでいるまっただなか、別の目的を達成してしまう。結末を知ることよりも、結末までの道のりがもっとも魅力的なのではないか、いうなれば、それが人生でしょ、と言ってしまいそうなキアロスタミの映画。
どの作品も約90分、通りすがりのように過ぎていく時間は、一見退屈なようでいてものすごく心地いいです。