『アキレスと亀』(2008)

北野武、はじめての遺作。
冒頭、ベレー帽をかぶった男が登場し青年時代の真知寿(たけし)なのかと思わせるが、ベレー帽は少年に譲渡され少年の名がくりかえされ、ようやく「たけしの顔」が明らかになる。そんなわざとらしい演出から始まるこの映画は、「芸術」とは何かを問い続ける人物を主人公として据えつつ、「俳優としての自己」を問うた『TAKESHIS’』、「映画監督としての自己」を問うた『監督ばんざい!』という自己批判に引き続く、まさに「過去」の集大成としての自我を結論づけるものである。


注目したいことのひとつは、彼の描く「絵」の変化である。静止(死)した「絵」は次第に“動き”と“他者の手”を要するようになる。孤独に何度も筆を重ね入れる「絵」は、友人らと、そして妻(樋口可南子)との共同作業を通して一瞬の産物、「画(映画)」に変化をとげたようにみえる。というのも、例えば、動く列車やバスを、立ちはだかって止めることで描こうとした少年時代のそれに対し、ペンキを乗せた自転車や自動車をキャンバスにぶつけてその動きそのものを刻み込もうとするそれは、事物と光の動きを焼き付けたフィルムの1コマのように思えるからだ。≪自画像≫としての映画の中で、「映画」を選択していく自分自身を描いたんじゃないだろうか、という想像さえしてしまう。


『アキレス』は自我を追い続ける自分自身、『亀』は追われながら同時進行的に成長を続ける自分自身、自己に対してくそ真面目に向かい合い、また殺し続けてきた北野武は、本作で「立ち止まる/死ぬ」ことを諦めた。彼はこれからも撮り続けるに違いない。だけどもしかして、追いかけていた亀がUターンするみたいに、映画内部で死ねなくなった「たけし」が「武」を殺そうとするんじゃなかろうか、こんないいもの作ったせいで。